カンタンに読める!金色夜叉/現代版

お峯は主人の鰐淵と
満枝の関係を疑う

目次 > 中編 > 第3章 1 / 2 / 3

中編第3章-2-

 お峯の悩み

  毒をもって毒を制す。
  鰐淵の債務者の中には、闇金大王の名を欲しいままにした某政治結社の有志家で何とかという者がいた。彼は三年来生殺しの関係で、元金一千万の借金を背負いながら、悪知恵を操り、雄弁を揮い、大胆不敵に構えてあれやこれやの策略を繰り出すので、闇金のベテランたる鰐淵をもってしても、債権回収の手の出しようがなかった。
  同業者も彼にかかっては、しっぺ返しを食らい、血反吐を吐かされた者が少なくない。鰐淵はますます憎らしいと思うものの、彼は鉄のてこを使っても折れそうになく持て余すのみだった。全額回収は無理でもそのままにしておくのは悔しいので、せめて見せしめのためにも時々釘を刺して、調子づかないようにしておかねばなるまい。というわけで、昨日鰐淵は抜かりなく追及してこいと、貫一に代理を命じて行かせたのである。

  貫一は彼に散々翻弄されながらも、負けてはなるかと罵り、おおよそ四時間もの間その場を立つことなく盛んに言い争った。病人同然の青二才だと高を括っていた貫一が、辛抱強く立ち向かって屈する様子を見せなかったので、ついに彼は仕込杖から抜刀した。
「おのれ、大人しく帰らねば生きて返さんぞ」
  刃渡り60cmほどの白刃を突きつけて脅したが、鼻先に刃が迫っても貫一は微動だにしない。そこへちょうどやって来た三人の男たちに貫一は殴打されて門外に放り出され、結局かすり傷を負って帰って来たのである。

  これゆえに貫一の繊細な神経は甚だしく激動し、夜も寝つけなかった。今朝は気分が優れぬと一日休みをもらって、敷きっ放しの蒲団の部屋に引きこもっていたのである。こんなことがあった翌日はおびただしく脳が疲弊し、心は乱れ、憤懣やる方なく、悲嘆に悲嘆を重ねてしまう。結果、勤めを一日休む「病気」に罹るのだ。
  そんな有様なので、彼は折に触れつつ自身の身体の弱さと、感情の振れ幅の大きさから、この仕事には向いていないんじゃないかと感じざるを得なかった。
  彼がこの仕事に就いた最初の一年は、働く日よりも休みの日の方が多かったと、今でも鰐淵が笑い話にしているくらいなのだ。
  翌年からはようやく慣れてきたとはいえ、彼の心が悪事を働くことに慣れたというわけではない。ただ単に耐え忍ぶことを学んだだけなのである。

  彼が耐え忍ぶ術を学んだのは、世界の終りのような失望と恨みを一日たりとて忘れることができなかったために、その余りある苦悶を他の方面に注いだというだけのことだ。失望と恨みを忘れるために、それ以外の堪えられぬほどの苦悶を享受せねばならなかったのである。
  それでも今もなお、彼は往々にして自らが行った残酷な仕打ちを悔やみ、あるいは他人に浴びせられた侮辱に耐えきれず過度に神経が高ぶったために、「病気」で仕事を休んで体調の帳尻合わせをしている次第だ。

  秋の空気は朗らかに澄んで、空の色、雲の佇まいは香り立つよう。輝く太陽の光は快晴を飾る南向きの窓ガラスを透かしている。
  薄手の蒲団に貫一はただ横たわっていた。青アザ残る頬、痩せた横顔の輪郭。雲が垂れこめたように物思わしい眉の下の眼はぴくりとも動かない。やがて崩れるように頬杖を倒し、枕に重い頭を落として寝返りを打つ。タオルケットを引き寄せては、広げた新聞を手に取るが、読むでもなく投げ遣って仰向けになる。

  そこへ誰だろうか、階段を昇って来る音がした。貫一はじっと動かず、目を閉じている。ドアを開けて入って来たのは主人の妻だった。
  貫一は慌てて起き上ったが、「そのままで」と彼女は制して、デスクの傍らに座った。
「紅茶を淹れましたから、お上がりなさい。少しばかり栗も茹でてきたのよ」
  彼女は手籠に入れた栗と盆に載った茶器を枕元に置いた。
「気分はどうです?」
「いや、なあに、寝ているほどのことでもないんです。これはどうもご馳走様です」
「冷めないうちにどうぞ」
  貫一は会釈してティーカップを取り上げて尋ねた。
「旦那は何時頃おでかけになりましたか」
「今朝はいつもより早くにね。赤坂に行くと言って」
  口に出すのも疎ましげな言いぶりであったが、貫一はさして気にも留めない。
「はあ、畔柳さんですか?」
「それがどうだか判らないのよ」

  お峯は苦笑いをした。ガラス越しの日差しが、その顔の小皺をくっきりと照らす。髪もやや薄くなってはいたが、一切の乱れもなく結っていて、顔もやや赤ら顔ではあるものの、清らかな艶がある。鼻のあたりに薄いあばたがあって、口を引きすぼめる癖を持っていた。歯は綺麗だった。装いはブラウンのチェック柄のネルシャツにカーディガンを羽織った姿だ。
  貫一はさすがに聞き流すことができず、
「なぜですか?」
と返した。

栗

  お峯はカーディガンの一番下のボタンを留めたり外したりしながら、言おうか言うまいか躊躇っている様子。無理に問い質すべきことでもなかろうと思った貫一は、籠の栗を手にとって皮を剥いた。彼女はしばらく思案したのち、ようやく切り出した。
「あの赤樫の美人さんね、あの人は悪い噂があるじゃありませんか。聞いていませんか?」
「悪い噂って?」
「男を引っ掛けては食い物にするとかって…」
  貫一は思わず首を傾げた。先の夜のことなどを思い合わせる。
「そうでしょ?」
「そんな話は全然聞いたことがありませんね。アイツは男を引っ掛けなくてもカネには困らないでしょうから、そんなことは無かろうと思いますが…」
「だからいけないんです。あなたなんかも手玉に取られるタイプですよ。カネがあるからしないというものではないんです。そういう噂が私の耳に入って来るんですもの」
「そうですか」
「あら、そんな剥き方じゃ、食べるところがなくなっちゃう。こっちに貸してみて」
「どうもすみません」
  お峯は言わねばならぬことを言うためには、しっかり向き合って喋るよりも、何かをして紛らわしながら喋ったほうがやり易いようだ。彼女はもっと大きな栗を選んで、その頂点からナイフの刃を入れた。

続きを読む