カンタンに読める!金色夜叉/現代版

苦悩から逃れたいお宮
その手段とは…

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続金色夜叉第3章-2-

 出せない手紙

「―――」
「お前も一杯飲みなよ」
「私、要りません」
「じゃあ俺が半分飲んでやるから」
「いえ、要らないの」
「まあ、そう言わず。少し注ぐだけだから」
「欲しくないって言ってますのに、あなたったら…」
「いいじゃないか。お酌は、ほら、こうやって注ぐんだよ。愛子の注ぎ方だがね」
  愛人の名を聞いて果たしてお宮は何を言うだろうかと、唯継は興味津々の流し目を彼女に送った。彼女は何食わぬ顔で酒をひと口含み、眉を顰めただけだった。

「もう飲めないのか。じゃあこっちに寄越しなさい」
「ごめんなさいね」
「これにもう一杯注いでもらおうか」
「あなた、十時を過ぎましたよ。早くお出掛けにならないと」
「良いんだ。この二・三日は別段、俺がしなきゃいけない急務はないからな。それで実はね、やっぱり今日は少し帰りが遅くなる」
「そうですか」
「遅いと言っても、アヤシイ理由で遅くなるわけじゃない。この二十八日に浄瑠璃の会のお披露目があるだろう。そこで今日の五時から糸川(いとがわ)の所に集まってリハーサルをするんだ。
  俺は十八番のこれさ。
  『親々に誘(いざな)われ、難波(なにわ)の浦を船出して、身を尽くしたる憂き思い。泣いて…チチチチ…明石の風待ちに…テチンチンツン…(浄瑠璃「生写朝顔話(しょううつしあさがおばなし)の一節」)』」

  厭わしげにお宮は余所見をしたが、図に乗る唯継はますます声を張り上げる。
「たまたま逢いいぃは逢いいぃながら…チツンチツンチツン…つれなき嵐に吹き分けられええええ…ツンツンツンテツテツトン、テツトン…国へ帰れば父母の、思ひも寄らぬ夫(つま)定め~」
「あなた、もういい加減にしてくださいな」
「もう少し聴いてくれ。立つる操を破らじと…」
「またいずれゆっくりと聞かせてもらいますから、早く行ってらっしゃいな」
「しかし俺も上手くなったもんだろう? ねえ? ちょっとは聞けるレベルになったと思わないかい」
「私には判りません」
「こりゃ参ったな。判らないっていうのは情けない。少しは判るようになってもらおうか」
「判らなくても良いのです」
「良いわけがない。浄瑠璃が判らんようなアタマじゃダメだ。お前は情が冷淡だから、浄瑠璃を好まないのに違いない。そうだろう?」
「そんなことはございません」
「いや、そうだ。お前は情が冷淡だよ」
「愛子はそのあたり、どうなんです?」
「愛子か。あれはあれで冷淡ではないさ」
「それでよく判りました」
「何が判ったんだい?」
「判ったのです」
「ちっとも判らん」
「まあ、そんなことはどうでも良いですから、早く行っていらっしゃいな。そして早めに帰って来てくださいよ」
「う、こりゃ参った。それは冷淡じゃないね。じゃあ早く帰るよ。お前、待っててくれるのかい」
「私はいつだって、待っているじゃありませんか」
「こりゃ冷淡じゃないね!」
  唯継がようやく立ち上がったので、お宮はコートを着せ掛け、手を差し出して握手を求めた。これは決してお宮の愛情表現でも冷淡でないことの証明でもない。夫婦のどちらかが外出するときに握手をするという儀式は、夫が結婚当初より命じて習慣化させた躾みたいなものなのだった。

  夫を玄関に送り出したお宮は、やがて氷の穴蔵に入るような思いを抱えつつ、やむを得ずも歩みを進めてリビングへ戻って来た。彼女にとって夫と一緒に居ることは、言い知れぬほどに煩わしいことであった。またひとりで家に居ることも、堪え難く鬱陶しいものだと思っていた。
  必ずしも努めて強いてそうしていたわけではなかったのだが、夫の前に居る時は自ずから気が張り、とにもかくにも殊勝な妻を振舞っていた。一転して自由なひとりきりになるや、どっと疲れが出て、心を整える術もなく、悩み乱れるのが常だったのだ。

  お宮はファンヒーターの前で崩れるように我を失った姿となり、物思いに耽り、考えを巡らせ、はたまた思い窮する状態に陥った。解決できない胸の内の悩みは、一生明けることのない闇の中を彷徨っているかのようだ。悲しみに居ても立ってもいられなくなった彼女は、身を起こして障子を開け、縁側へと出た。
  麗しく冴えた空は遠くに三つ四つのドローンの影を描き、庭には見渡すばかりの冬枯れのみ。ただ陽の光だけはあからさまに眩しく、鳴き狂っていたヒヨドリが梢から去った後は、隣家の庭から遊んでいる声がわずかに聞こえるだけで、ここは寒さをしのぐに相応しい物が一切無かった。
  それでもお宮はしばらくの間、庭に佇んでいた。空を眺め、冬枯れを見遣り、陽の光を仰ぎ、遊んでいる隣家の声を聞きながら。しかし抑えようにも抑えきれない思いに辛くなってしまい、再びリビングへ戻った。そこに留まるでもなく、そのまま書斎の隣の寝室に向かうと、彼女は身体を擲ってベッドに伏してしまった。

  雪のように純白の寝具の上で、乱れ重なった服が彩りを競いつつ、お宮は艶やかな肢体を気ままに横たえている。窓のカーテンを透してほのぼのと照らされたその姿は、全く匂い零れるほどに美しかった。されども彼女自身は、波に漂った人が今しがた浜に打ち揚げられて心身困憊で命を落とそうとするかのように、ただ手枕で横顔を支えて、力なく目を瞠っているだけだった。
  ついには溜息をついて瞼を閉じた。片寝に埋めた顔を内向けては、裾が肌寒いのか侘びしげにわずかな身動きをする程度で、なおも底知れぬ思いの淵は彼女を深淵に沈めて逃さなかった。

  棚に置かれた枕時計はチクタクと時を刻むのを忘れない。寝室はますます静かに、陽が射しこんでますます明るくなった。ただただ空しくあり、また空しい時間が過ぎるともなく過ぎて行くだけであった。射し入る鳥の影が軒端のほど近く、伏したお宮の肩先に連なって翻った。
  しばらくして彼女はしどけなくベッドの上に起き直った。髪が乱れた頭を傾け、カーテンの隙間からわずかに見える庭へ見るとはなしに視線を送っては、あてどもなく心彷徨う跡を追うのだ。

日射しが入るカーテン

  ほどなくしてお宮は寝室を出て、再びリビングへ戻った。クローゼットから友禅縮緬の帯揚を取り出すと、そこへ挟んでいた大切そうな一通の手紙を抜き、今度は唯継の書斎へ移動してデスクに向かった。
  その手紙は貫一が残した品ではなく、いつの日かお宮が彼に送ろうと、あの別れの後の思いの丈を密かに書き連ねたものであった。
  これはかつて田鶴見のダンナの屋敷で貫一の姿を見て以来、隠しきれない胸の内を訴える相手もいない切なさから、ただ心を慰める手段としてかりそめにペンを執っただけの物に過ぎない。されどなかなか口に出して打ち明けにくいことをもスラスラと書き綴ったこの手紙を彼のもとに送って、散々思い知った現在の悲しさを告げることができれば――
  そうやって一途な気持ちを定めたりしたものの、またもや考えは巡る。この手紙は果たして貫一の手に触れ、目に入れるべきだろうか。実現したとしても、憎み恨み怒りのあまりに投げ返されて、万が一にでも人目に晒されることでもあれば、いたずらに我が身を滅ぼす火種を自ら蒔いてしまうことになりまいか――
  手紙を渡せば、飛んで火に入る夏の虫のごとし。手紙を捨てるのも、また惜しい。そのうち良い結果を迎えるようにと、拠り所のない願掛けをしながら、悩みで押しつぶされそうな時ごとに手紙を取り出しては、文面を書き写してみたり、あるいは書き添えてみたり、または書き改めたりしていたのである。

  こうして手紙と向き合っていると、お宮はまるで貫一と対座しているかのように感じるのだ。貫一に対して言いたいことを全て言い尽くせるし、一切の心残りもなくなる。手紙はお宮の願望を実現してくれ、気分を軽やかにさせてくれるのだ。
  こうして送ることができない手紙は、転写して灰になるか、反古になるか、もしくは彼女の帯揚に隠された。相手に届くという手紙本来の役割は果たされることはなく、いつしか始まったこの習慣は、今や随分長いものとなってしまった。
  こんなことで自らを慰めて過ごすしかなかった彼女である。だからこそ荒尾に再会した嬉しさは、何にも例えようがなかった。この人こそふたりの間を取り持って、彼女の募る思いを叶えることができる人だ。そう感じた。しかしその頼みは、仇のごとく断られた。
  悲しみは切ない彼女の胸をさらに掻き毟る。積もり積もった今では、心の中に危険を恐れない覚悟すら湧いてきて、
「これではいけない。手紙は貫一さんに届けないと」
と思うようにさえなってしまった。

  良い紙を選び、良いペンを選び、お宮は心して字をしたため、今日のこの手紙こそ初めて清書の一枚にするのだとの気持ちで取り組んだ。ところが打ち震える手で十行ほど文を書き記したものを、彼女はビリビリ破いてライターの火で燃やしてしまった。炎はメラメラと立ち昇り、疎ましそうな目で炎を見つめるお宮。
  その折、ドアが開いた。突如視界に炎を見た女中は、怪訝な顔で彼女の様子を怪しみながら声を掛けた。
「あの…本家の奥様がお越しになりましたが…」

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