カンタンに読める!金色夜叉/現代版

車中で闇金の噂話をする5人
しかし彼らの脛にも傷が…

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中編第1章-2-

 美人クリームの噂

  固唾を呑んでいた荒尾は、何やら思うところがあるかのように頷いた。
「女なんてのは、そんなものさ」
  甘糟はその顔を振り仰ぎながら、
「驚いたね。キミがそんなことを言うなんて。荒尾が女を語るとは思わなかった」
「どうしてさ」
  佐分利が話を始めた頃から、列車はやや速度を上げた。
「聞こえん聞こえん。もう少し大きな声で」
「もっとこっちに寄れよ」
「荒尾、あのワイン飲みたい。喉が渇いた。ここからがいいところなんだからね」
「佐分利は話を聞かせるのに追加料金を取るのか。酷いな」
「蒲田(かまだ)、いいツマミ持ってるじゃないか。ひとつくれよ」
「うひゃあ、図に乗ってやがる。俺は荷物でも片付けよう」甘糟が口を挟む。
「甘糟、お前も何か持ってるんじゃないか」
「ほら来た。はいはい、持ってますよ」
  佐分利は部下に命じるかのように「ちょっとくれないか」と続けた。

  赤ワインをすすり、甘糟が出したチーズをパクつきながら、佐分利はおもむろに言葉を継ぐ。
「いわゆる花の盛りの娘盛りの満枝(みつえ)をだ、好き勝手自由にしてしまったわけさ。これはもちろん、親父には内緒だったんだよ。最初のうちこそしきりに帰りたがっていた娘がだ、いつからか親父の方から帰って来いって言っても帰って来やしない。
  そのうちにだ、段々内情が判って来たのだろう。昔気質の親父はえらい怒ったんだと。お前なんか俺の子じゃない、あんたなんか親じゃないってな騒ぎになったんだ。そうするとな、今度はハゲのオッサンのほうから、愛人だから気に入らないのだろう。籍を入れて妻にするから娘をくれって話を持ちかけた。
  それで実際に会ってみれば、娘もな『お父さん、どうか結婚を許してください』と来たもんだから、親父は想定外の事態にますます不服だ。けれど、悪魔に魅入られてしまったんだと親父も愛想を尽かしてな、たった一人しかいない娘を自分より十も年上の闇金のオッサンにくれてやったんだと。
  それから満枝はハゲに溺愛されてな、家計も任されて自由にできるようになったわけだが、実家に仕送りでもするかと思えば、どうしても送らねばならないもの以外は一銭もやらん。これがまたハゲを喜ばせてね。満枝も普段から闇金の商売を眺めているうちに、いつからかこの商売が面白くなったらしい。この財産は自分の物だと思うと、親父よりも金銭のほうが大事という、不敵な考えを持つようになったんだとさ」

「驚かせる話だね」
  荒尾は忌々しく呟いて、やや不快な表情を見せた。
「それでだ。あいつはそっちの才能があったんだろう、自然と闇金のやりくちってのを呑み込んで、そのうち、手が足りないときにハゲの代理として、どこへでも出掛けるようになったって話は、ますます驚くべきものさ。
  ちょうど一昨年あたりからハゲが脳卒中で半身不随になってしまって、未だ動けない。だから下の世話までして、女手一つで盛んに商売をしているんだ。
  しかもその前の年かに、親父は死んだのだそうだ。だが、フローリングに薄い敷物を一枚敷いただけの寝床で死んだってくらいの最期だったそうだぞ。病気になる前はろくろく人を寄せ付けなかったそうなんだが、残酷な最期だったって言っても、どういうことなのか、何を考えてるんだか判りゃしない――しかし、これが事実さ。
  で、ハゲはその通りの病人なので、今じゃあの女が一人で腕を奮ってますます盛んになって家業に精を出しているんだ。これがまあ『美人クリーム』って呼ばれた謂われってもんさ。
  年齢?二十五だって聞いたが、そうだな、二十三より老けては見えないね。あれで可愛い細い声をしてさ、物腰柔らかく、言葉少なめに巧いこと言うんだ。恐るべきもんだよ。銀貨を見てどこの国の勲章かしらなんて言いそうな全く上品な様子で、証書の書き換えだとか、証文を書いてだとか、急所を突く手際の回りくどい巧妙さときたら、実に魔法の薬でも使って人の心をたぶらかすのかと思うほどなんだ。
  俺も三度ほどたぶらかされたが、柔よく剛を制すとはよく言ったもので、闇金には美人が適役だね! あいつに国を預ければ、まさにクレオパトラさ。滅んじまうよ」

  風早は最も興味を惹かれたようで、
「じゃあ今は、そのハゲは不随で寝たきりなんだね。一昨年から? それでは何か『虫』があるんだろう。あるある。それくらいの稼ぎで神妙にしているものか。無いと見せかけておいて実際にはあるのがクレオパトラさ。しかし、とんでもない女だな」
「あまりとんでもないのも恐ろしいさ」
  佐分利は頭を抑えて、後ろにもたれつつ笑った。皆も釣られて笑う。
  佐分利は二年生のころから既に高利の金貸しのドツボにハマり、今やあちこちから取り混ぜて五件の債務、一千二百八十万の取り立てに油を搾られる身なのだ。次いで、甘糟の八百万、トレンチコートの者が卒業前に三百万、その後にまた四百万の債務を抱えていた。無傷なのは風早と荒尾だけなのである。

空中を舞う札束

  列車は品川に着いた。彼らの話を笑みを含んで聞いていたビジネスマン風の乗客は、退屈を慰めることができたのを感謝するかのように、一礼してなぜかここで下車した。
  しばらく話が絶えた間に、荒尾は何か切りだそうと、その目を空ろに見据えつつ、何でもないことのように口に出した。

「その後、誰も間のことを聞いてないのかい」
「間貫一かい?」
  皺枯れ声が問い返した。
「ああ、誰か言ってたな。闇金のブローカーやら従業員をしてるだとか」
  蒲田が続ける。
「そうそう。そんな話を聞いたね。しかしだ、間には闇金のブローカーはできないよ。あいつは闇金に身を落とす以上の悔し涙を流した過去があるからな」

  我が意を得たりとばかりに荒尾は頷いてなお、物思いに沈む。佐分利と甘糟の二人は一学年上だったので、間のことを知らない。
  荒尾が口を開いた。
「闇金って言うのはどうも嘘じゃないかな。実に可哀相な目に遭った男だ。あまりに多くの涙を流しすぎている。惜しいことをしたもんだよ。得難い才能を持っていた男だったのに。あいつが今居たらなあ…」
  彼は忍びやかに溜息を洩らした。
「お前ら、今あいつに逢っても顔を見忘れたりはしないよな」
「そりゃ覚えてるさ。ピンと目尻が上がってるのがあいつの目印だ」
風早に続いて蒲田も口を挟んだ。
「それから髪の寝癖な。愛嬌があったじゃないか。デスクの上に頬杖をついて、こう下向きになって何時でも真面目に講義を聴いていた姿は、なんとなくイングランドのアルフレッド大王に似ていたさ」

  荒尾は仰いで笑った。
「キミはいつも妙なことを言うね。アルフレッド大王とは奇想天外だな。僕の親友を昔の英雄に例えてくれたお礼に一杯授けよう」
「なるほどなあ。キミは兄弟のようにしていたから、始終思い出すんだろうね」
  蒲田が尋ねた。
「僕はね、実際死んだ弟よりも、間がいなくなったのが悲しいのさ」
  しょんぼりと彼は頭を垂れる。トレンチコートはボトルを手にして、佐分利が持っていたグラスを借りて荒尾に渡した。
「さあ、お前を慰めるために、ここはひとつ、間の健康を祝そうじゃないか」
  荒尾の表情に喜びが溢れる。
「おお、すまんな」
  なみなみと注がれた二つのグラスは彼らの眼よりも高く掲げられて、カチンと音を立てた。紅の雫が漏れるように流れるのを二人揃って溢さぬよう一気に飲み干す。

  これを見ていた佐分利は甘糟の膝を揺らして囁いた。
「蒲田は世渡り上手だね。顔はブサイクだが、あんな感じで行くから、たびたび上手い拾いモノをするのだ。ああ言われれば誰だって嬉しいものだからな」
「よっ、さすがはエリート官僚候補!」
甘糟は図に乗って囃す。佐分利も尻馬に乗った。
「エリート様だ!」
「エリート様がお涙を流しておられるぞ」
「バカかお前たちは」
  荒尾は一蹴でたしなめると、改めて言い出した。
「どうも僕は不思議でならないんだがね。僕は駅で間を見たんだよ。間に間違いないんだ」
  たった今、陰ながら彼の健康を祈って祝杯を上げたばかりの蒲田は拍子抜けして、荒尾の顔を眺めた。

「えっ、それは不思議だな。向こうは気がつかなかったのかい」
「始めはコンコースの入口でちらっと顔が見えたんだ。余りに意外だったもんだから、僕は思わずベンチを立ったんだが、すぐ見えなくなってしまった。それからしばらくしてふっと見上ると、また見えたんだ」
「ミステリーだね」
「その時もな、立ちあがるとまた見えなくなって。それから改札を抜けて新幹線ホームに来るまでは見えなかったんだが、どうも気になるんで振り返ってみると、傍の柱のあたりで僕を見て黒い帽子を振っている者がいた。それが間だ。帽子を振ってたんだから、間に間違いないじゃないか」
  新横浜、新横浜、と緩急取り混ぜてアナウンスが流れ、車内は雑然としてきた。駅のホームには群衆と発車ベルの響きの混雑が入り混じっていた。

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